愛について

大変烏滸がましいとは思いますが…(^◇^;)

【愛するとはどういうことか】
自分自身の中で考える必要が人生のうちのタイミングとしてあると思う

愛とはどういうものか
どういうことが愛であると感じるか…
どういった表現がわたしにできるか…
愛であることはわたしとしてどういうことなのか…

道に咲く花を見て『愛だなぁ』と思う人がいる
ではその花が枯れたとき『愛だなぁ』と思うだろうか
花のない時『愛だなぁ』と思うだろうか
その花はあなたを愛しているから咲くのだろうか…

人それぞれの価値観がある
それぞれの哲学があるだろう
それぞれでいい
それを見つけていくこともまた生きている意味でもあるかも(^^)

咲くか咲かないかという例えにある
多くの2元性、2極にあるとき
ヒトは苦しむのだろうと思う
対極に出会えば反応が起き、闘いが起きる
ただし苦しみは…味わいの機会であり生きる糧
それもまた素晴らしい

わたしが誰かを愛している
例えばそのことに対して…
相手が応える必要があるだろうか
(応えてくれればそりゃあ嬉しい)
けれど応えて欲しいと望むことはエゴでしかない
そのエゴを通すなら…それ相応の対応と努力が必要。。

この花が大好きなの。
だから…お花もわたしへの愛の証に咲いて欲しい…
…ハテ…(^◇^;)
まぁでもこれと同じに感じる。。。笑

ただし、人の心を動かすという難しさにチャレンジするのもよい❤️

愛の中にある、ということは…
わたしが目の前の人を愛している
その中にいて愛をしたいように表現し続けられる
これはわたしが感じているその人への愛であり
したいことをし続けることはわたしのその人への愛を認め励ますことである

ここに相手は存在しない
相手がどうであるか は関係ない
わたしに対してどのような気持ちであるかは関係ないの

わたしへの愛がないから
またはそのように感じるから
だからその人への愛がなくなる…そうであるならば。

その状態の愛は真の愛には辿り着いていない
いい悪いではなく
辿り着く必要があるかどうかでもなく
今はそうなのだということを受け入れる必要があるだけ、だろう

そしてわたしは辿り着く必要があった✨

その人の行動や言葉在り方がわたしに対してどうであるかという
それは…条件下にある
その人がわたしを愛しているかどうかで
わたしの愛の量が決まるということになる

その時…もしかしたら
その人を使って自分の何かを埋めようとしている
または欲しいものを得るために愛を表している
その人から欲しいものを得られそうだと思い込んでいる
そのような自分に気付くだろう

相手はわたしという存在ではなく
わたしの思い通りになる人形でもない
相手の心の中は見ることができない
見せろ、と要求できるものでもない
確認もしようがない
知ることも真のところまでは知ることはできない
(その状態のときには特に…)
その状態の愛の質は…
相手がどうであるかを確認するためであったか…
と自身の現状を知ることになる

気持ちの発生とそれに伴う行動や言葉は自然である
そのことに相手のわたしへの気持ちは関係ない

わたしが感じているあなたという存在をわたしは愛している
わたしが見るあなたは美しく見えていて素敵である
わたしはそのあなたを愛している
それに基づく言動のすべて。
相手がわたしを愛してくれるかどうか
は基準ではない

無条件にわたしを愛し
わたし自身が愛の中でいること
そしてそれがひとやもの
ふれる、見える、感じる存在全てにおいて
同じであるということ

誰かがどうであるか、という条件ではなく
あなたがありのままであるとき…
わたしがそのあなたを愛したいと思う

それがわたしの中に起きる時、それは奇跡✨
そしてわたしは感謝する
そのような機会のすべてに。。。








PER TE

存在するけど、しない… 癒しと魂の導きを セッションでは、 年代、生物種生死問わず魂と繋がりながら 自分では気付かない本当のあなたが望む声を 知るお手伝いをします。 必要な答えに自ら辿りつく為の気付きへ…

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