ひとの痛みは体験しないとわからない?

痛みや悲しみや苦しみは
その体験をしたことがある人にしか理解できない

よくそんな言葉を耳にします。。

わたしはそんな風には思えません…

たしかに。。その本当の痛みについて
その感覚や頻度や感情の数々
心境の変化の細かな波の部分
その質感や温度など…
それを本当のところで理解することは
不可能かもしれません。。。

またそれを具体的に数値化できるものや言語化できるものでもありません

でも。
その人の目を見てそこにいて
わからないなりにも 体験のあるなしではなく
それを真っ直ぐに聞き なんの判断もすることなく
そばにいてその温度を感じたり
放つ言葉の音や 言葉にできない感覚の合間について

似たような経験からの感覚を当てはめるのではなくて
まっさらに聞くことはできるはずだと
わたしは思います

あなたが大事にした方がいい人は…
あなたの言葉を聞き 飽きた風ではなく 何度でも
あなたの言葉に耳を傾け
それをなにかと判断することなく
まして否定することなく
またあなたのダメなところを目立たせるのではなくて
あなたのいいところを見てくれる人
そしてそこを伸ばすことを共に喜んでくれる人

ひとの痛みの中に
その人の深みと強さがあります

あなたがもし今くるしいのなら…
あなたは今そこになにか望むものがあり
欲する世界があるということです

あなたがもし今かなしいのなら…
あなたにはそれだけの愛があり
感受性の深みがあるのだと思うのです

ひとの痛みや悲しみがわからないのではなくて
それを受け止め切れない人もいます
そこには恐れがあるのかもしれないのだから仕方がないのです。。
攻撃をする人 ジャッジしたがる人
何かを排除しようとする人 
その人たちにもその人たちの痛みや悲しみが隠れており
その恐れによってそれをするのかもしれないのです

それをすべて許せということではありません
そういうこともあるとか
そういう時もあるということだと思うのです
そしてそんな時があっても仕方がないのだと思うのです

命ある生き物としてみなおなじ
言葉のあるなしではなくて
種の違いなどでもなくて
それぞれの生きる姿の中で
怒りもあれば悲しみもある
苦しみも寂しさも
だからこそ…こだわる何かがあったり
強く主張するエネルギーとなることもある
攻撃になることもある
傷つけた分、もしかしたら傷つくということもある

それは生き物すべてに同じようにあること

それらを否定することは不自然でしかない
そしてそれらを理解できないということではなく…

今は受け止め切れません…とか
それは今はわたしには直視できません…とか
そんな感覚なのではないかと思う

誰もが誰ものどんな悲しみにも
どんな時にも向き合えるとは言いません

だけど…向き合うそのさじ加減は
それぞれのその時のあなたのままで選択はできる

そして…誰かの気持ちを理解するということは
想像という素晴らしい方法を使ってできるんじゃないかとわたしは思います

なにもいうことなく
なんの意見もいらない
ましてアドバイスや解決法やそのテクニックなど
ほとんど必要ありません。

ごく当たり前のことだけが必要なこと
経験や体験がなくとも
わたしたちには脳が与えられていて
ハートがここにあることはおなじ
それをそのままハートを開いて聞いて
それをできるだけ変質させることなくそのまま
まっすぐに受け取ること

まずはいつだって
自分自身にその聞き耳をたてて
その思いすべても逃すことなく自身が向き合うこと

そこから感じるすべて。。。

PER TE

存在するけど、しない… 癒しと魂の導きを セッションでは、 年代、生物種生死問わず魂と繋がりながら 自分では気付かない本当のあなたが望む声を 知るお手伝いをします。 必要な答えに自ら辿りつく為の気付きへ…

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